2017年12月31日日曜日

神の恵みを頂く器

 宗教改革500年の記念の年、2017年も今日で終わりだ。教会の外壁に張り出してあるマルティン・ルターの肖像の入った大きなバナーともいよいよお別れかと思うと、少々寂しい。
 中学生たちが教会の前を、「あっ、ルターだ!」と言って指差して通って行くのを二三度見た。彼等は授業で「ルターは宗教改革のヒーロー」だって習うのだろうか?もしそれだけなら、ちょっと理解が浅い。
 私たちもそして君達も、人間はみな神の恵みを頂く器として愛されて今を生きているのだよとルターは伝えたんだ。聖書はその恵みの神について書いてある。
 このツィートを読んだら、教会にぜひ来て欲しい。

2017年12月24日日曜日

満ち足りる幸い

 羊飼いたちは、天使の言葉を受け入れて、そして、ベツレヘムに急いだ。幼子イエス様のいる厩を見つけるのは、きっと簡単じゃなかったんだと思う。
 でも諦めずに、厩から厩へと訪ね続けた。そして、とうとう幼子が眠っている飼い葉桶をみつけたとき、それはもう、喜んだ。「天使のお告げ通りだ!」
 厩も、飼葉桶も質素だった。しかし、神様は御子の誕生に必要なものを満たしてくださった。幼子イエス様が与えられて、マリヤとヨセフは満ち足りていた。
 昔々のクリスマスの夜、羊飼いたちはこの不思議な光景を見て信じたと聖書は伝える。クリスマスは神の無償のプレゼント。満ち足りる幸いを今に伝える!

2017年12月17日日曜日

ハレルヤ三唱

 今年もクリスマス・チャリティコンサートで「メサイア」を聞いた。中学生の頃、クリスマスが近づくと「クリスマスはメサイアよ!」と叔母がよく言っていたことを思い出す。しかし、当時の私は「メサイア?それ、いったい何のこと?」と、思っていた。
 後になって、「メサイア」はヘブル語のメシアのことで、「油を注がれた者」の意味だと知った。それは神様から特別の使命を与えられた者に対して使われた言葉で、そこから「救い主」の称号となった。
 「ああ、メサイアって、イエス・キリストのことか!」と大いに納得して以来、主キリストは私のメサイアとなって共に歩んでくださっている。ハレルヤ三唱!

2017年12月10日日曜日

ネガティブ・ポジティブ

 アドヴェントのこの季節、思わぬ恵みに与った。
 家人はコンビニでクリスマスカードをコピーして、それをクレジットカードで支払った。丸一日経った翌日、カードをコピー機に忘れてきたことに気がついた。かつて米国でカード被害にあった経験のある家人は青くなった。私は「たかだかコピー代にカード払いは不注意すぎる」と、家人の傷口にさらに塩を塗ってしまった。
 しかし、感謝なことにカードはコンビニの店頭に届けられていた。ありがとう!どなたかの誠実さに助けられました!
 家人のミスも私のネガティブ発言もすっかりおおわれて、なお余りある恵みだった。ネガティブは罪だが、恵みはあくまでもポジティブだと心にしみる。

2017年12月3日日曜日

りんりんりんりんと

 アドベントは忙しいが、一年で一番心が躍るときだ。クリスマスの準備をしながら次第に心が整えられる。
 忙しい合間にシュトーレンブレッドと紅茶でホット一息つくのはアドベントのこの時期の格別の楽しみだ。
 嬉しい、楽しいクリスマスがやってくる。・・・子どものすーきなイエス様のお生まれなさったこのよい日・・・である。
 子ロバのように、子どものように、イエス様をお迎えしたい。りんりんりんりんと遠くから聞こえてくる鈴の音のように、イエス様の訪れに耳をかたむけながら・・・今日から待降節が始まった。

2017年11月26日日曜日

争いから交わりへ

 日本福音ルーテルと日本カトリックの宗教改革500年共同記念礼拝が長崎の浦上教会で行われた。11月23日のことだ。
 この500年の間、ルーテル教会とカトリック教会とは、主キリストと福音を信じながら、別々の教会であるかのように歩んできた。そういう私達が、この場に一同に会している。「今ここに、こうしているということは本当に素晴らしい。恩寵だ!」そう思っただけで私のテンションは否応なく上がった。
 ルターの宗教改革から500年、第二バチカン公会議から50年余り、私達は「和解と一致と交わり」によって、キリストの平和へと招かれた。さらなる融和と交わりに、聖霊が導いてくださる。

2017年11月19日日曜日

主よ、しばしお待ちを

 イエス様のたとえ話は幾重にも意味が重なっていて簡単ではない。今日の愚かな乙女たちの慌てふためきも、万事ヌケヌケの私には身につまされる。肝心な時に居眠りをし、その上、灯火を灯すための油を切らしている。人生の正念場においてなすべき準備を怠っていたという愚かな乙女たちの話だからだ。
 しかし、油店までの距離がもっと近かったなら、彼女たちもなんとか婚宴に間に合っていたかもしれない・・・「問題は距離と時間だ」などと、土壇場になっても私の頭はひたすら回転する。
 だが、遅い遅いと思っていた花婿は突然目の前に。主よ、しばしお待ちを・・・私今すぐ油、買って来ます!
(マタイ25:1〜13)

2017年11月12日日曜日

…ムニャムニャ…

 「ルターと宗教改革500年」というラジオ番組が楽しい。NHKのラジオ第一とインターネット放送の<らじる★らじる>で、江口再起先生がルターと宗教改革について分かりやすく教えてくださっている。
 毎週火曜日の夜8時半と10時の2回の放送だ。私はインターネットで<聴き逃し>をクリックしては寝る前にかけながら聞き、いつのまにか眠ってしまう。
 神学生だった頃はルターの神学はいかめしく思えたものだが、こうして今ラジオから聞くルターは親しみやすく、暖かく感じられるから不思議だ。神の義は恩寵として与えられるということを聞きながら眠る。この安心さこそ福音…ムニャムニャ…

2017年11月5日日曜日

よい実をつけるぞ

 実りの秋がやって来た。湯河原でも山や畑でミカンがオレンジに色づく。スパーの店先から買って食べるだけでは、収穫の苦労や喜びを知ることはない。
 主イエスは天の父である神を農夫、ご自分をぶどうの木、わたし達をぶどうの枝に例えられる。主に繋がっていれば神ご自身が手入れをして、わたしに達に良い実を結ばせて下さるという。果たしてわたし達は良い枝なんだろうか・・・?そういえば、主は実をつけなかったイチジクの木を、世話をしてみるので切り倒さずに待ってくれと神に頼んでくれていたね。
 そうか、わたし達は、神が切るのを惜しまれる主イエスの枝なんだ。実りの喜びを一緒に味わうために!
(ヨハネ15:1〜17)

2017年10月29日日曜日

きっと花婿ご自身が来て下さる

 ブロードウェイで大好評だったミュージカル『Cats』(キャッツ)の公演が終わって間もなくのことだった。テネシーに地方劇団の『Cats』がやって来た。車で行ける。招待状を貰ったも同然。行かなくっちゃ! 
 地方劇団とは言え生の歌や踊りはグッとくる。もはやライブ感覚だ。CatsのTシャツまで買って、タガーやグリザベラの歌に合わせ、私もノリノリで歌ってしまった。少々太り気味の猫も中にはいたが、いいじゃぁないか!そんなこと気にしていては楽しめない。
 婚宴に招かれて礼服を来てこなかったこの人、恵みに委ねられないこの人、心の暗闇で歯噛みをしているこの人のところへ、きっと花婿ご自身が来て下さる。
(マタイ22:1〜14)

2017年10月22日日曜日

全ては神によってつながっていると知る

 T姉の入院を偶然に知った。夕方遅くなっていたが病院へ訪ねる。どんな様子かとドキドキしながら病室に入ると、予想に反して彼女はベッドを起こして一人ゆったりと新聞を読んでおられた。ホッとした。
 いつものように若き日の思い出話に花が咲く。「『ウドの大木』って言われてたのよ〜」と懐かしそうに笑っておられた。手を取り合って祈った。
 別れ際に、「教会あっての私だものね。教会の皆さんによろしく。ありがとう」と言われた。これがT姉と交わした最後の言葉になった。
 その約1時間半後、突然彼女は天に召された。不思議な偶然も全ては神によってつながっていると知る。

2017年10月15日日曜日

天高く馬越ゆる秋

 「天高く 馬肥ゆる秋」という諺がある。幼い頃に聞いて私が想像したのは、白い天馬が大きく一蹴りして、秋の青く澄み渡った大空を跳躍してゆく姿だ。
 勘違いも甚だしいのだが、私は大きくなるまで「天高く馬越ゆる秋」だとばかり思っていた。耳から聞いていただけなのでこんな思い違いがあって、笑える。しかし「馬越ゆる」でもぜんぜん悪くない。天の大空はいつも神の存在を思わせてくれるからだ。
 イザヤ書は、「天が地を高く越えているように神の道も思いも私たちを高く超える」(55:9)と記す。ぶどう園の主人は5時からしか働かなかった者を馬の背に乗せてゆうゆうと飛んでゆく。最後の一人にハレルヤ!

2017年10月8日日曜日

愛と赦しの立看板

 紅葉し始めた緑を眺めながら、今年のノーベル平和賞のニュースを嬉しく聞いた。
 「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICANアイキャン)に贈られた理由は、「核兵器がもたらす破滅的な結果を人々に気づかせ、条約で禁止しようと草分け的な努力をしてきた」と言うものだ。
 小田原からの帰り道、真鶴町の見慣れた大きな立看板「核禁止平和都市宣言」が急に新鮮に感じられる。草分けの根はこんなところにまで伸びて来ていた!
 今日、人を赦せ、無限に赦せ、自分も赦されたのだからと言われる主イエスは全ての人の心に十字架の愛と赦しの立看板を立てて、平和宣言をされる。

2017年10月1日日曜日

イシグロちゃんの恵み

 ご近所の猫のイシグロちゃんの世話を始めて、かれこれ8ヶ月目に入るだろうか。飼い主だった方はご高齢のために一人暮らしができなくなって、施設に入らねばならなくなった。家には猫が一匹で残された。
 きっと家に残した猫のことが気にかかるに違いない。キャットフード、水、蚊取り線香、懐中電灯、それにペーパータオルなど猫のご飯の世話に必要な一式を持って出かける。遅くなっても必ず私たちを待っていると思うと、大変だからと言って止められない。
 猫が食べている間に、私はスクワットが100回できる。日頃は運動不足の家人も行き帰りの道のりを早足で歩いている。これをイシグロちゃんの恵みと呼ぶ。

2017年9月24日日曜日

親の愛に包まれて

 季節は夏から秋へ。今年もあちこちに真っ赤な彼岸花が咲く。その花の間をぬいながら秋の風が吹く。
 今日はなんて爽やかな風が吹くのだろう!そう思いながら見上げると、高く澄んだ秋の青空だった。
 「今日は真っ青な空ですね」と、牧師館の前を通り過ぎる人が気持ちのよい声をかけてゆく。「本当にそうですねぇ」と、思わず笑顔になる。こんなちょっとした会話が楽しい。不思議にこころが澄みきって、余計なものが落ちて行く。
 解放された心、神のみ手の中にある本当の安心こそが何よりも大切なんだと思う。言ってみれば、おさな子が親の愛に包まれている時の安心かなぁ〜。

2017年9月17日日曜日

新老人の使命ってすごい!

 「新老人の会」をご存知だろうか。故日野原重明さんが提唱してできた会だ。世界で一番早く長寿国となった日本の高齢者が、元気で生きがいを感じられる生き方をする具体的な提案活動だそうだ。
 確かに、高齢になっても自立して、これまでの人生で培った知恵や経験を社会に還元できるお年寄りはたくさんいる。65歳以上を老人とするという半世紀前の国連の取り決めは、既に実態にそぐわない。
 ソーシャル・ネットワークを駆使してお互いに繋がり合う「新老人」の唯一つの使命は「子供たちに平和と愛の大切さを教えること」だという。キリスト者であった日野原さんらしい。新老人の使命ってすごい!

2017年9月10日日曜日

若き時の

 「いやー、今日はこの言葉がズシッと来たー!」と聖書の学びで皆が言った箇所は「わたしの若き時の罪と、とがとを思い出さないでくださいだ。(詩篇25:7)
 私やもっと上の年齢の方たちは「今思い出しても恥ずかしいことを一杯やってきた」と言う。そして、私よりずっと若い彼等も笑いながら言う。「今もそうだけど、10代や20代のころはホント未熟だったよね〜。自分ばっかり偉そうだった!」。若き日は誰にも“恥多き若かりし頃”なんだと深くうなずく。
 私たちも詩篇の詩人と共に深い懺悔をする。私の罪には目をつぶり、私に対する慈しみだけを思い出してください。虫のいい言い分だが、主にだけは願える。

2017年9月3日日曜日

今、心から感謝!

 この夏、健康上の都合で外出できないが、聖書の学びがしたいという一人の方を訪ねた。
 インターネットはしないというので、テキストなどは郵送し、「感想や質問は電話か手紙で」ということで始めたものの、なかなか進まない。やっぱり手紙や電話ではね〜という思いがつのる。イエス様の「訪ねよ」という声もするので、この日思い切って訪ねた。
 西陽の射す部屋で、麦茶を飲み、飲み、吹き出す汗を拭き、拭き、学ぶこと2時間。猛暑の中、扇風機だけ?エアコンが壊れていたことを後から知った。それにしてもあの時のものすごく冷えたオシボリには救われた。訪ねて良かった。今、心から感謝!

2017年8月27日日曜日

嬉しくなってそっと歌う

 このところの厳しい残暑には、正直参った!白旗を振ろうとしたとき、ふと見上げた空に広い広いうろこ雲。やっぱり秋なんだと胸を撫で下ろす。きっと明日から暑さが和らぐのだろう。そう思うだけで、気持ちはグ〜ンと楽になった。
 そうだ、あの時も主イエスはわたし達を青草の野辺に座らせて、わずかのパンと魚とを持って生き返らせてくださった。そして今日も、主は疲れ、飢え渇いている私たちを満たし、潤し、癒して下さっている。
 もう毎日が奇跡だと、もう一度空を見上げる。うろこ雲は大空にある野原のようだと思った。嬉しくなってそっと歌う。「秋よ来い、早〜やく来い」。

2017年8月20日日曜日

ちょっといい感じ

 日照不足が原因なのか、坂の上の桃の実が青いまま次から次へ落ちて、坂道を転がり落ちてくる。ゴロゴロと歩くのに邪魔になるばかりか、車に潰されて道が汚れる。
 初めは家のゴミではないのだからと、道の向こう端に足で蹴り転がしていた。しかし、桃の実は毎日転がってきては我が家の前に溜まり続ける。
 先週のこと、そうだ、拾って捨てればばいいんだとふと思った。そこで落ちてきた桃の実を上の方から拾い集めて、ゴミ袋に入れてみて思った。意外に簡単なことなんだ!お陰で道がきれいになった。なんだか嬉しい。私もちょっといい感じになった気がする。これって隠された宝を見つけた気持ちに通じてる?

2017年8月13日日曜日

発想の転換が必要だね

 灰色の猫、JDは大のブラシング嫌いのせいで、すっかり毛玉だらけになってしまった。先日、見かねた家人が毛玉を切ろうとして、誤って皮膚を切ってしまった。獣医さんで5針縫ってもらった。
 「少し毛をトリミングしてあげましょう」という獣医さんの勧めで、お願いして帰った。ところが、病院へ迎えに行ってびっくりした。丸刈だった!
 本人は綺麗さっぱり毛を捨てて結構ご機嫌だ。尻尾の先にだけ残された毛が、ライオンの尻尾のようでなんとも可愛い。毛玉のトラブルもすっかり無くなった。「君はライオンだね」とツルツルの体を撫ぜてみる。
 思い切って丸刈りか!発想の転換が必要だね。

2017年8月6日日曜日

平和の祈り-聖フランシスコによる-

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
  憎しみのあるところに 愛を、
  争いのあるところに 許しを、
  分裂のあるところに 一致を、
  疑いのあるところに 信仰を、
  誤りのあるところに 真理を、
  絶望のあるところに 希望を、
  悲しみのあるところに 喜びを、
  闇には光を、もたらす者としてください。
聖なる主よ、どうぞわたしに望ませてください。
  慰められるよりも 慰めることを、
  理解されるよりも 理解することを、
  愛されるよりも 愛することを、
  わたしたちは与えるから 受け、
  すすんで赦すから 赦され、
  自分を捨てて死んでこそ 永遠の命をいただくのですから。
  アーメン

2017年7月30日日曜日

聖霊の涼しい風が吹く

 小田原への道、早川駅前を車で通り過ぎた。頭にタオルを撒き、かごを背負って、でっかいトンクを片手にゴミを拾いながら歩いている男性を見かけた。頭にタオルを巻いた姿は、どう見てもボランティアワークだ。この暑さの中、エライ人がいるものだ!
 翌朝のこと、教会前のゴミ置き場のネットを抱えていく近所の方に会った。だいぶボロボロだけれども、繕えばもう少し使えるかなと思って・・・とニコニコ顔。汚れたゴミのネットを、ホント、有り難い!
 私はと言えば、今週は暑さと忙しさとでくたびれ果てた!だが、こんな無私の行為を見れば、からだの中には聖霊の涼しい風が吹く。さあ、また頑張るか!

2017年7月23日日曜日

ラインホールド・ニーバーの祈り

ラインホールド・ニーバーの祈り」

神よ、変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、
変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

2017年7月16日日曜日

すでに愛は勝ったのだから

 主イエスは弟子たちを宣教に送り出すにあたって、迫害のあることを予告された。戦後日本では思想・信教の自由は国民の基本的人権として保証されたが、いま雲行きが怪しい。隣の国々ではなお弾圧の中にある。
 30年ほど前になるが、「愛は勝つ」という歌が流行った。…どんなに困難で、挫けそうでも、信じることさ、必ず最後に愛は勝つ…恋愛の応援歌だが、妙にキリスト教的だなぁと感じたことを思い出す。
「敵はいない」と、非暴力の戦いを続けた隣国の人は死んで負けたのではない。キリストは、私たちは孤立無援ではないこと、神の私たちに対する慈しみは決してなくならないと伝える。すでに愛は勝ったのだから。

2017年7月9日日曜日

雨の中で輝く紫陽花は

 九州北部では数十年に一度という豪雨のために多大な被害が出て心が痛むというのに、ここは真夏の天気が続く。ふと、地球温暖化、異常気象と言う言葉が頭をよぎる。
 「去年はきれいだったのに、今年は紫陽花はかわいそううですね」とは、たった今通りがかった近所の方の言葉だ。そう言えば今年の紫陽花はさっぱりだった。「どうぞご自由にお持ちください」という札も貼らずじまいだった。梅雨はまだこれからが本番なのか、それとも遅れた「梅雨明け宣言」を待つだけなのか?
 いつの間にかシトシト雨の安心で懐かしい梅雨を忘れてしまうことがないようにと願いながら、雨の中で輝く紫陽花は来年の楽しみに取っておく。

2017年7月2日日曜日

何十年ぶりかのプリン

 今週もホームで暮らす92歳になる叔母を訪ねると叔母は満面の笑顔で迎えてくれた。
 叔母は好物のプリンを見ると、「あら、こんなに美味しいもの、何十年ぶりかしら」そう言いながら、ゆっくりと美味しそうにプリンを味わって平らげた。
 「何十年ぶりだって?!」と私は内心であきれて、先週もプリンを食べましたよと訂正しようかと思って、止めた。叔母の中ではとっくに時間の観念はなくなっている。
 プリンを食べる度に、何十年ぶりかと思うほど美味しいと思えるなんて、なんて幸せなんだろう!こんな感動を神様は叔母にくださっているんだ。

2017年6月25日日曜日

枇杷を食べながら思う

 甘くておいしい実のなる枇杷の木が小田原教会の庭の外れに一本ある。もともと実生の枇杷だったらしいが、順調に育ってこの2、3年でたくさん実を付けるようになった。礼拝の後、みんなで採って楽しんだ。高い所のは、鳥や虫たちへの恵みの分かち合い。 
 手で皮をむくだけで果汁が溢れる。甘さが口一杯に。そんな枇杷を食べながら思う。良い木はイエス様だ。良い実は、イエス様が下さる福音だ。わたし達はそれをただ、ただ、頂いて味わえばいいんだ・・と。
 「自分なんかダメだ」や「・・・ねばならない」に押しつぶされそうになって生きる私たちの口に主は今日もジューシーな福音の実を食べさせて下さる。

2017年6月18日日曜日

喜んで天に送ろう

 梅雨に入ったと言うのに、このあたりは晴天続き。庭の紫陽花も心なしか、うらめしそうに空を見上げる。本来なら、シトシト、ジトジトの季節だと思えば、サヤサヤと吹く爽やかな初夏の風はもうけもの。
 この格別の天気に恵まれて、教会家族のわたし達、みんなが愛するY姉妹が天国に旅立った。107年11ヶ月3日間の長寿の生涯だった。それだけに山坂、谷ありの人生だったに違いない。
 空の鳥を養い、野の花を育てて下さる主の愛は計り知れない。しかし、空の鳥にも野の花にもまさって主はひとりの主の僕、Y姉妹を慈しんで心に留めてくださった。今日は「ハレルヤ!」と喜んで天に送ろう。

2017年6月11日日曜日

悟っておられるかのように

 リハビリ施設に入所した高齢の◯さんを時々訪ねる。今日は枕もとのところに額に入った猫の写真があった。きっとベットに入っても見ていたのだろう。
 ◯さんといつものように祈り合う。そして「クロちゃんは元気でいます。毎日、ごはんと水を持って行ってます。安心してください。◯さんの帰りを待っていますよ。リハビリ、頑張ってください」とお伝えする。
 しかしこのところ、ご自身でも家に戻ることはないと悟っておられるかのように言われる。「ご親切を感謝します。クロちゃんをよろしくお願いします」。 
 クロちゃんの餌やりももう2ヶ月になった。戻らぬ人を待つ・・・、◯さんの望みは叶えたいなぁ!

2017年6月4日日曜日

聖霊の風よ吹け

 風が吹いて、裏口でコトッと音がした。「ひょっとして主の来臨ではないかしら?」と妻。「じゃあ、ちょっと見てこよう」と立ち上がって見に行って「主はおられなかったよ」と夫。・・・これはずいぶん昔、明治生まれの老夫婦の家庭集会での会話だ。
 神がかった会話を普通にする夫婦もいるものだと半ば呆れ、半ば感心して聞いたことを思い出した。 
 それにしても聖霊降臨はまったく神がかりだ。ゴーッとものすごい聖霊の風が吹いた。すると聖霊に満たされた弟子たちは聖霊に動かされて福音を語りだす。
 すごい風でも、そよ風でもいい。コトリっとほんのチョトでもいい。聖霊の風よ吹け!わが内に吹け!

2017年5月28日日曜日

生涯神を讃美し続けた

 先日のこと、伯母の入所施設から、「これから"看取り"に入らせてください」と言う連絡を突然受けて驚いて会いに行った。そのとき、とびっきりの笑顔を見せてくれた伯母は、延命を一切しないまま3日後に微笑んで天に召された。100歳だった。
 キリスト者の両親のもとに生まれ育ち、オルガンを学び、戦後の人種差別下の米国に留学した。故渡辺善太牧師から、姉の故岡村民子は「神学」を、節子は「讃美学」を修めなさいと送り出されたそうだ。それが果たせず、帰るに帰れなかったと心の闇を覗かせた事があった。しかし最晩年も施設で礼拝に与り、生涯神を讃美し続けた。主よ、慈しみに感謝します!

2017年5月21日日曜日

不明のアーティスト

 先日、自作の歌を吹き込んだCDをいただいた。
 そう言えば、マイカーを買ってから3年以上経つというのに、車中でまだ一度もCDを聞いたことが無い。
確かCDプレヤーが装着されているはずだが・・・と説明書を見ながら、さっそく、このCDを試してみる。ボリュームを上げると、おもむろに音楽が聞こえてきた。オゥー、なかなかイイじゃーないか!
 CDのデスプレイにはちゃんと曲名が表示されたが、作曲者欄は「不明のアーティスト」とだけ。機械って全く正直だね。お世辞の一つもない。
 音楽業界では無名かもしれないが、不明じゃないよ。その人、実はイエス様つながりの人なのだから。

2017年5月14日日曜日

どんなもんだい!

 最近、私にも得意料理が出来た。豆腐の上にあんかけのようにしてのせて食べるニラ料理だ。家人が、珍しく「おいしい」というので大いに満足だ。
 ニラを5ミリほどに切って、そこに胡麻油、砂糖、酢、鰹節、醤油、赤唐辛子、すり胡麻を加えて混ぜ合わせ、冷蔵庫に保存。ニラのキムチのような味だが、そんなに辛くはない。冷奴にも、湯豆腐にもどちらでもいける。豆腐一丁くらいまたたく間に平らげられる。今年の夏は、「ニラのキムチ風あんかけヘルシー豆腐」で行こうと決めた。
 この5月、早くも真夏日が続く。「やったぜ!」「どんなもんだい!」少しばかり鼻が高くなる。

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(どなたかのHP(お名前がわかりません。ごめんなさい)からメモしたものです)
ニラひと束 5ミリに刻む 袋でまぜて冷蔵庫保存
醤油 大さじ3
酢 大さじ1
砂糖 大さじ1
ごま油 大さじ1
ごま 小さじ1
鰹節 5グラム

唐辛子 1本

2017年5月8日月曜日

おいしいね

 連休の一日、娘夫婦が訪ねてきた。何ヶ月ぶりだろうか?とにかく我が家のテーブルを片付けて、座れるところを作らなくてはと、日頃の怠慢を思いっきり反省しながら片付け始めた。しかし、床を拭き終わらないうちに、二人は牧師館の玄関に立っていた。「よく来たね」「さあさあ、上がって!」と招き入れる。
 昼ごはんは近くの店の蕎麦定食。「おいしいね、おいしいね」と言いながら食べてくれる。
 午後は真鶴半島へ。展望台で海の空気を思いっきり吸った。「やっぱり空気もおいしいね!」と二人。
 「おいしい」という二人の言葉から、親の家に帰ってきた安堵感が伝わってきた。

2017年4月30日日曜日

二人の上に祝福を!

 先日、小田原教会で結婚式をさせて頂いた。
 この3ヶ月ほど、二人には、結婚カウンセリングのために何度か教会に来ていただく。人間はみな不完全で不十分。だからお互いを赦し合い、受け入れることが何よりも大切になる。結婚における夫婦も同じだ。
 ヨハネは語りかける。「神は愛である。愛さないものは神を知らない。わたし達は神を見ることはできないけれども、わたし達が互いに愛し合うなら、その中に神はとどまってくださる」(ヨハネの手紙一4章から)
 式の後、エリカの花が満開の庭でコーヒーとケーキのレセプションを準備する。手作りの結婚式は簡素な中にも暖かさが溢れた。主よ、二人の上に祝福を!

2017年4月23日日曜日

イースターエッグのミニ・ミッション

 新緑の中を復活の主イエスの息吹を感じながら、イースターエッグをお届けした。礼拝に来られない方々とご近所の方たち、どなたも一様に喜んで下さる。
 病院に入院されている一人の方は、「イースターエッグをもらったのは初めてです。きれいですねー。」と嬉しそうに目を細める。「来年もまた。」と約束した。
 最後にお渡ししたのはミニチュアダックスを連れて牧師館の前をよく散歩される方だ。「わー、きれい!これ、飾っておいてもいいんですか?」「どうぞ、どうぞ、よろしかったら。」と、わたし。
 イエス様の復活の幸せが伝われば、それで十分。主よ、イースターエッグのミニミッションに祝福を!

2017年4月16日日曜日

この目で主を見ました!

 花とりどりを引き連れて春がやって来た。この美しい季節にわたし達の主イエス・キリストは復活された。
 主の復活は、わたし達の経験や知識というものに限界があることを教えてくれる。イエスの遺体を探しに来たマグダラのマリヤは主を墓所の園丁だと思いこんだ。にわかに復活は信じ難い。そのマリアに向かって、主は懐かしいあの声で「マリヤ」と呼びかけられた。園の中の主イエスとマリア・・・一幅の絵だ。
 主は、弟子たちが近づき得なかった十字架近くに、信仰と愛だけで近づいたマリアに、復活最初の証人の栄誉を与えられた。マリアは歓喜のうちに叫ぶ。「ああ、見ました。わたしはこの目で主を見ました!」

2017年4月9日日曜日

聖週間

 枝の主日の今日、主イエスはエルサレムに迎えられた。聖週間の始まりである。
 聖月曜日、主は神殿を清められる。聖火曜日、エルサレム神殿の境内で、主は堰を切った流れのように時を惜しんで語られる。聖水曜日、主は神殿に行かず静寂と沈黙の中で過ごされる。ユダは主イエスを売り渡すことを決めた。聖木曜日、主は弟子たちと過ぎ越しの食事を祝われる。これが最後の晩餐となった。聖金曜日、主は十字架におかかりになる。
 イエス・キリストをとおして神の愛が凝縮されたこの聖週間、主の弟子たちの経験を追体験したい。わたしも弟子のハシクレなのだから!

2017年4月2日日曜日

輝く光に包まれて

 ある方が語ってくれた話だ。
 重度の障害を持った友人が先日亡くなった。その友人は体も言葉も不自由で、ほんの2、3語を話せるだけ。しかし、いつも彼からやすらぎを与えられ、勇気づけられたという。電話で彼の死を知らされた時、輝く光に包まれて神のもとに上げられる情景が目に浮かんだ。彼との別れは悲しいけれど、自分でも驚くほど心は平和だったと話してくださった。
 人は神からの愛を受ける器として、誰もが神から頂いた命を精一杯輝かせるためにこの世に生まれ出る。
 「置かれた場所で咲きなさい」との渡辺和子さんの言葉がふと浮かんだ。

2017年3月26日日曜日

今は見える

 主イエスが生まれつきの盲人の眼を癒やされた話は、見えなかった者が見えるようにされ、主に従う者へとかえられた霊的な恵みのできごとでもある。
 英国で黒人奴隷貿易に携わったジョン・ニュートンは嵐の海で命拾いをして、悔い改めに導かれた。彼が作詞した賛美歌「アメイジン・グクレイス(驚くばかりの恵み)」に「かつては迷ったが、今は見つけられ、かつては盲目であったが、今は見える」と言う歌詞がある。あたかもこの盲人の魂の叫びのようだ。
 牧師となったニュートンは奴隷貿易禁止運動を推進する。「神の驚くばかりの恵み、それはなんという心地よい響きだろう!」と神の恵みは歌い継がれる。

2017年3月19日日曜日

満足の涙が

 施設での「歌の会」に参加していたYさんは、「私は歌が大好きだから」と言いながら、元気にわたし達を迎えてくれた。話を伺ってから、「今日は訪問聖餐にお伺いしました」と言うと、自室へ案内してくれた。
 ご自分は車椅子のままで、私にベットに腰掛けなさいとすすめてださる。この夏108歳になるYさんからこんなもてなしを受けるとは・・・と感動しつつ、感謝して聖餐に与っていただいた。
 “主われを愛す/主は強ければ/われ弱くとも/恐れはあらじ/わが主エス、われを愛す”と歌う。聖餐と讃美を通して主がYさんの内側から触れてくださった。Yさんから涙が溢れる。主から潤された満足の涙が。

2017年3月12日日曜日

猫のマーブル

 猫のマーブルが来週退院と決まった。下顎にはまだワイヤーが入り、牙も折れたが、獣医師のお陰で、とうとう自分の顎を使って食べることができるようになった。おまけに眼の先天性障害も治してもらった。車にひかれたにも関わらず九死に一生を得た。
 会いに行くと、すぐにゴロゴロ擦り寄って来てはひっくり返り、お腹を出して甘えてくる。半ノラなのに警戒心がなくおとなしい性格だ。思わず撫でてしまう。
 全幅の信頼を寄せてくるマーブルのために、どうか飼い主を与えてほしいと願う。
 “マーブルを飼って下さる方を探しています。少し長めの短毛の黒猫、人懐こい可愛い性格の猫です。”

2017年3月5日日曜日

レントには

 3月1日(灰の水曜日)から四旬節(レント)が始まった。「四旬節」という言葉は40日間のことで(復活祭までの6回の日曜日を入れて実際には46日間)、40日はもともと断食の日数だった。たとえ、わたし達は断食をしないまでも、この時期には、「祈り、節制、愛の行い」が強く勧められている。
 しかし、今日は、天の父の愛の中でゆっくり心と身体を休める日だ。まずは、父と子と聖霊の愛の交わりの中にどっぷり浸かって、主に賛美と感謝を捧げたい。
 天の父が赦してくださったように、自分自身を赦し、天の父が愛してくださったように、自分自身を愛する。そうすればだんだん他者への愛と赦しも増してゆく。

2017年2月26日日曜日

喜びが増し加わる

 熱が続き、両手がパンパンに腫れてしまった叔母がとうとう入院した。痛風かリュウマチか、それとも感染症なのか診断はつかず、主に祈る。先日の夜、病院に叔母を見舞うと、驚いたことに手の腫れがすっかり引いていた。笑顔で私を迎えてくれた叔母の手を取って感謝の祈りを捧げる。
 一方、交通事故で大怪我をした猫のマーブルも下顎の手術をしてもらい、鼻からカテーテルで流動食をとって、少しずつ回復してきている。会いに行くと、ゴロゴロ言いながらお腹を出してくれる。
 大変な中にも感謝することの多い日々だ。感謝が大きければ大きいほど、喜びが増し加わる。

2017年2月19日日曜日

きっと助かる!

 生まれつき目の悪い半ノラ猫のマーブルが車に撥ねられた。血を吹き出すマーブルを車に乗せて近くの獣医師のところへ。しかし病院は休診日。K姉妹に助けを求める。彼女の案内で、数分後に別の獣医さんに診てもらうことができた。手術の必要な重篤な状態だとわかってO市の動物病院に連れていった。
 「助けてやってください」と言う家人の懇願に、「もちろんです」との返事に力づけられる。こちらの事情を知って、費用の面でも協力を申し出てくださった。
 いまマーブルは手術を受けて生きている。主よ、感謝します。一羽の雀でさえ父の許しがなければ地に落ちることはないと主は言われた。マーブルはきっと助かる! 

2017年2月12日日曜日

主よ、カバンを

 Iさんが天の父のもとに召された。忘れもしない2013年のクリスマスに、私が牧師として初めての洗礼を授けたのが彼であった。すでに病を得ておられて、その後は入退院を繰り返しながら、忍耐強く闘病生活を送られた。
 政治家の秘書という経歴からだろう、「元気になったら岡村牧師の鞄持ちをして、牧師がどんなことをしているのか知りたい」と、よく冗談に言っておられた。
 いまごろは、御国の門に出迎えてくださったエス様に「主よ、主のカバンを・・・」と、言っているのかもしれないなと、そんな情景を想像させられるほどに、Iさんの最後の顔は嬉しそうに輝いていた。

2017年2月5日日曜日

私たちにたくされている

 米国では、難民やイスラム教徒の一時入国禁止の大統領令が出された。早速、米国福音ルーテル教会の現任主教から署名入りの抗議声明文が発表された。
 ルター派のキリスト者の先駆者達が祖国を逃れる苦しみを経験し、米国で暖かく迎えられたことに触れながら、米国は歴史的に人種、国籍、宗教によって迫害された人々が、その脅威から逃れる避難場所となってきたと述べる。それは聖書の証言に基づくのであって、米国にとって最良の伝統でもあると訴えている。
 「わたしは、ちょうどめんどりが雛を翼の下に集めるようにお前たちを集めた」(エズラ記1:30)。主のみ言葉の実現は私たちにたくされている。

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米国福音ルーテル教会 現任主教 エリザベス・イートンの署名文
弱い立場にある難民の入国を一時的に禁止する大統領令は、私たちの安全を保障するものではなく、私たちのキリスト者としての価値観を反映するものでもない。アメリカに移住する難民は、人種、宗教、国籍、政治的意見または特定の団体との関連による迫害を逃れてきた者たちである。彼らは、政府の複数の情報機関による安全保障審査を無事に終えるために一年以上を優に費やしており、その期間中は、多くの場合危険にさらされながら、完全なる異文化の中で暮らしていた。ルター派のキリスト者として、私たちの先駆者たちの多くは、祖国を逃れる苦しみとアメリカ各地のコミュニティで温かく迎えられる喜びを経験している。私たちが歴史を通じて行ってきたように、私は、選挙で選出された我が国の政府関係者に、私たちの聖書に立つ証言を尊重し、また脅威からの避難場所という我が国の最良の伝統に対して敬意を払うよう強く訴え、難民の移住計画の縮小に繋がるいかなる政策に対しても、断固として立ち向かうことを宣言する。

Rev. Elizabeth Eaton, Presiding Bishop of the Evangelical Lutheran Church in America:

“Temporarily banning vulnerable refugees does not guarantee our security nor reflect our values as Christians. Refugees being resettled in the United States have fled persecution because of their race, religion, nationality, political views or association with a particular group. They have waited well over a year to successfully complete security screenings by multiple intelligence agencies while living in a completely foreign culture, many times, still facing danger. As Lutherans, many of our ancestors faced the pain of having to flee our homes and the joy of being welcomed in new communities across the United States. As we have done throughout history, I urge our elected officials to honor our biblical witness as well as the best of our nation’s traditions of refuge and stand firmly against any policies that result in scaling back the refugee resettlement program.”

2017年1月29日日曜日

主の「召し」

 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」主イエスがこう声をかけると、ペテロは網を捨て主に従った。聖書は実に潔いペテロの姿を描く。
 私の父の名は巌、ペテロという名前だ。父も潔い生き方をした人である。自分を主張をするというのではなく、主の「召し」を全面的に受け入れて僻地医療に生きた人である。かつて私はこんな父に反抗した。
 しかし、人はこの主の「召し」を受け入れて生きることが実は安心なのだとわかってきた。主がお召しになったのだから、責任は召した方、主が取って下さるのだから。わたし達はただ、すべてを捨てて、その「召し」を受け入れるだけ。それは主の愛の業だから。

2017年1月22日日曜日

本当に、本当に美味しいよ

 遅くなって夕食の準備に取りかかる。前日に家人が買っておいた牡蠣が冷蔵庫にあった。
 大好な牡蠣フライが食べたいが、手間がかかるなぁと、言い出せない。無理して作ってもらっても、この前のようになってはと、衣がはがれたり、ひと餅になったかわいそうなカキフライの姿を思い出した。
 しかし、家人は手早く牡蠣を塩水で洗い、衣を丁寧につけ始めた。わたしも油を火にかけて準備する。十数分後、きつね色の美味しそうなカキフライが揚がった。「今日はあなたの誕生日だから」と家人が言う。そうか、今日のカキフライは僕の誕生日のお祝いなんだね。ありがとう。本当に、本当に美味しいよ。

2017年1月15日日曜日

尖った声を出してしまった

 集会から戻ってくると、牧師館に至る脇道をブロックして車が2台止まっている。しかも運転者が居ない。
 「こんな所に車を置くなんて非常識だ!」と憤慨して道路脇に車を止めた。見ると隣の門で運転者らしき女性2人が、しきりに何やらやっている。
 次の予定もあって気が急く。「車をどけて下さい。入れないんですけれど!」と、非難めいた、尖った声を出してしまった。女性たちはそそくさと車に乗り込むと無言で走り去った。
 こういうときこそ一呼吸入れる祈りが大事なのにパニクってしまった。寛容さを欠いた私の言葉を主イエスは何と聞かれただろうか。

2017年1月8日日曜日

ルターとクラーナハ

 この正月、上野の西洋美術館に出かけた。『クラーナハ展』でルターの肖像画の本物を見るためだ。
 ルカス・クラーナハはルターと同時代に宮廷画家として活躍した人で、ルターの友人でもあった。クラーナハの描いたルターの肖像画は宗教改革500年のバナーでも親しみ深い。この肖像画は、実際はルター夫婦が一対である肖像画だということがわかった。温かみのある二人の表情に庶民の幸せを感じる。
 初めて見るルターのドイツ語訳『新約聖書9月版』に見入った。クラーナハの微細な木版の挿絵入りの黙示録のページに、諸刃の剣が口から出ている「人の子」の姿があった。おお、これがかの聖書か!と感じ入る。

2017年1月1日日曜日

新しい気持ちで

 新しい2017年を迎えた。今年も、なすべきことを一歩一歩、忍耐強く誠実にやらせてくださいと祈る。それが信仰者の生き方の基本だと思うから。信仰のこと、魂のことこそ基本を大切にして、一つ一つやっていかなければ全て壊れてしまうからだ。
 「魂のことは目に見えない。だから壊れる時は本人も誰も気づかぬうちに崩壊してしまう。信仰者が大切に守ってきたもの。教会が一つ一つ積み重ねてきたもの。その遺産の上にあって我々もまた一つ一つささやかな石を積んでいかなければ、神の恵みにとうてい答えられない」とは大先輩の言だ。
 この言葉を新しい気持ちで心に刻んだ。