2016年2月28日日曜日

自動ブレーキ

 こういうとき自動ブレーキがあれば、と思われた方はいないだろうか? 
 先日、ぶっつけたり擦ったりした車を修理に出した。「自動ブレーキが欲しい」と言ったら、「自動車は運転するもの。自動ブレーキなどつけたら、それはもうメカじゃなくなりますよ」というディーラーの言葉。
 運転中の突然死による事故や高齢者の事故は多い。そう言う私も、昨日は赤信号をおおかた見過ごすところだった。見ていても、脳が反応していないのだ!
 自分のへっぽこ運転を顧みないではないが、いや、へっぽこ運転だからこそ、高齢者時代の自動ブレーキを!と声を大にしたい。

2016年2月21日日曜日

レントに相応しいかも知れない

 この冬の我が家の昼食の定番は「雑炊」だ。今日もやけに黒っぽい葉っぱがいっぱい入っているので、どういう野菜なのかと思いながら食べる。「これ、なに?」と聞くと、白菜だという。白菜の一番外側の葉を全部使ったのだそうだ。なるほどアクの苦味がする。
 「戦時中なら、さつま芋の葉を入れていたのよ」とは、家人の弁解だ。玄米にいろんな野菜を入れた塩味だけの健康食だと自慢らしい。暖かいのは冬のごちそうだと言って、居合わせた人にも勧めている。
 水加減次第で人と分かち合うことができる雑炊、なるほどレントに相応しいかも知れない。だが、味の方はというと…まあ、いいか!それ以上は言うまい。

2016年2月14日日曜日

灰の水曜日

 2月10日は「灰の水曜日」、この日から四旬節が始 まった。今年、初めて「灰の式」を行った。「あなたは塵から造られ、塵に帰る」と一人ひとりに告げなが ら、棕櫚の葉を焼いて作った灰で額に十字のしるしを付けた。私も、最後に灰の十字をつけてもらった。
 帰る時、お互いの額に十字の印しがあるのを見て、なんだか嬉しくなった。キリストの十字架の印しを受けるというのはこの時以外にない。「回心して福音を信じなさい」ということが主のみ心だと知る。だから「改心」ではなく、「回心」なんだ。
 塵にすぎないわたし達、十字架の主を頼みに、ひたすら「天の父よ」と近づきたい。

2016年2月7日日曜日

礼拝はまさに

 山の上で、主イエスは弟子たちに一瞬だが天の栄光を見せてくださった。それは主が生涯でただ一度だけ見せてくださったまばゆく光り輝く姿だ。
 礼拝はまさに主の変容の山の頂での出来事だ。主の死と復活を体験した教会は、こうして日曜日のたびに、わたし達を山の頂へと導いてくれている。
 礼拝という頂、ここでわたし達はふもとにいた時には見ることの出来なかった天の栄光を垣間見て、励まされ、キリストの体と血を頂いて、そして下山する。礼拝は天の栄光を垣間見る瞬間だ。
 ペトロのように思いっきり叫びたい。「先生、わたし達がここにいることは素晴らしいことです」と。