2016年1月31日日曜日

幸いなるかな

 「幸福でなくなるということが不幸。不幸でなくなることが幸福」とは一遍上人の教え。現実の思いとして妙に納得できるものの、なんだか虚しさが残る。
 今日、主は「幸いと不幸」を教えられる。すべてを神様に委ねて、生きてゆくことのできるあなたは幸い。そして、今この世のものだけで満足しているあなたは不幸だと。「幸い」とは、神の絶対的な愛で、無条件に私達が愛されていることを知ることだ。
 「幸せの青い鳥」を探して旅をした兄妹は、家に帰ってみて、青い鳥は前から家にいたことに気がつく。 
 それと同じだ。神の愛は宇宙の創めからあなたと共にあった。思い切って主の幸いに身を委ねてはどうか。

2016年1月24日日曜日

「お言葉ですから」

 季節は大寒に入った。木々は春の芽吹きの備えを真冬にしている。自分はこういう準備を滞ることなく、たんたんと出来る人間では決してないが、こういう自然には憧れる。
「 諦めて丸めて捨てた過去の夢 皺を伸ばせばまだ叶うはず」これは『学生百人一首』の今年の一首。 「着々と準備よく」ではなくても、諦めたものにもう一度挑戦するというのはなかなかいい。再挑戦というのもある。再、再挑戦だって構わない。
 今日、主は夜通し漁をして徒労に終わったペテロにもう一度網を下ろせと言われる。「お言葉ですから」と、聖霊は働く。

2016年1月17日日曜日

あったか〜いおしるこで

 身近な人たちが風邪にかかっている。そういう私も2,3日前には風邪のためその日の夕食は食べることが出来ず、そのまま床についた。 
 翌日も朝食から抜いて、その日は一日体に蓄えたもので過ごす。 この日の午後の「癒やしの礼拝」の後で、正月に本物の餅を食べなかったという人たちのために、餅を食べてもらおうと、おしるこを作った。
 「イエス 内なる光 闇にとどまることなく イエ ス あなたの愛を伝えられるように」と歌った。その後のおしるこは格別だった。「イエスさまは本当に優しいんです」って伝えたい。よく伸びるお餅とあったか~いおしるこで。外は寒いが教会は暖か。私は空きっ腹。

2016年1月10日日曜日

あっぱれ校長先生

 朝食の欠食率は2割近くという中学校のニュースが目に止まった。校長自ら生徒に呼びかけ、フードバンクなどから調達した朝食を食べさせているという。
 朝8時前、校長と教頭それに養護教諭たちが林檎の皮を剥いたり、パンを皿に載せたりして、生徒に給仕する。「目の前に食べていない子がいる。この子たちが大人になれば、その習慣が次の世代に引き継がれてしまう」と校長はいう。彼は、「目の前の必要に向き合う」ことが「負の連鎖を断つ」ということになると確信するのだろう。深く共感する。
 新しい年も、主は求める方々を教会へと招かれるに違いない。さあ、私も自ら給仕するものとされて。

2016年1月3日日曜日

このみ言葉で始まる

 元日の朝、祈祷のために礼拝堂を開ける。教会入口にある電柱の足元に、自生してすっかり大きくなった菜の花が、黄色い花をつけていた。鼻を近づけると、蜜の良い香りがする。爽やかな新春の喜びを目と鼻で受け取った。
 新しい年の始め、今年は聖書を通読しようと心に決める。旧約3章と新約1章、毎日通読すれば一年で聖書全巻を読み終える。
 さて、それでは今日からと聖書の冒頭を開く。そうか、新しい年、2016年もこのみ言葉で始まるんだ。「初めに、神は天地を創造された」。菜の花も年頭の志も万物の創造主あってこその、この喜び。