2015年3月29日日曜日

ロングドライブ

 金曜日、いつものように小田原教会に出かけた。真鶴を過ぎると、だんだん車間が詰まりとうとう渋滞。
 どんどん山の方に迂回する車を横目で見ながら、どうしようか?と迷う。しかし知らない道は今一不安と、もたもたしている内に出るチャンスを失う。結局小田原教会に着いたのは朝10時半を回っていた。
 さて帰り、落石の処理は完了せず。小田原市内からすでに渋滞。朝の優柔不断が悔しいので近道を探すが、無意味な努力だと知る。辛抱強く車の列に絆がれる。 
 裏道から割り込んでくる車を、迷いながらも入れてあげた。「俺って、いいやつだなぁ」とちょっぴり思ったりしながらロングドライブの一日を終えた。

2015年3月22日日曜日

霊の目で見たい

 カトリックの十字架はキリストのご像があり、プロテスタントのそれはシンプルである。
 先日ラジオを聞いていたら、テレビとラジオのどちらの方がより脳が活性化するか?と言うことを言っている。日頃ラジオを聞いているので、ちょっと興味を持って聞いた。答えはラジオの方だという。ラジオは映像を補う分だけ余計に前頭葉を使うという。これはいい。
 であるなら、キリストのご像のない十字架に、私たちのために苦しまれるキリストの御姿を、霊の目で見たい。そこにキリストが架かっておられる十字架はどんな苦しみも喜びに変わるというシンボルだからだ。キリストの御姿を十字架に仰ぎ見つ受難週に向かう。

2015年3月15日日曜日

蜜柑もいろいろ

 ◯さんが手に持っていたバックから蜜柑を一つ手品のように取り出してくれた。形と大きさはオレンジ、皮は甘夏そっくりで、色は伊予柑のようだ。さっそく食べてみた。味はあっさりした温州蜜柑のようだが、はて、初めて食べたこの蜜柑はいったい何だろう?
 そういえばN君のTシャツには見たこともないたくさんの柑橘類の絵がプリントしてあったなぁ。スウィティー、セトカ、セミノール、ハルミ、日向夏、黄金柑・・・品種改良がすすんで今や蜜柑にはこんなに種類があるのかと驚いた。
 名前も知らない蜜柑を食べるなどという楽しみはここ湯河原ならではだ。これもまた神の恵みと思う。

2015年3月8日日曜日

なんとなくゾクゾクしてくる

 教会の隣の広い空き地に大きな天幕がはられた。その翌日、ちょうどこちらは「聖書の学び」の最中だったが、鍬入れ式が行われたようだ。次の日、いつの間にか巨大天幕はすみやかに取り去られた。
 いよいよ某宗教団体の建築が始まり、竣工は来春3月だと聞くと、なんとなくゾクゾクしてくる。「いよいよ隣に建ちますね」と言うと、「いいじゃぁないですか!立派な鉄筋の建物の隣に、教会はやはりこれですよ。」と、◯さんが励ましてくれるのが有り難い。
 そうだ、教会は単に建物ではない。キリストの十字架によって誰もが救われるところなのだ。小さき群れの「世の光・地の塩」としての挑戦は続くと納得する。

2015年3月1日日曜日

魂の器

 四旬節(レント灰の水曜日からイースターの前日まで)に入った。この期間は主の十字架を思って「回心する」期間である。それは、「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)という事実を覚えるときだ。
 けれども、私達は生涯の終わりには単なる塵に返っていくのではない。イエス・キリストは十字架の愛によって、この貧しい塵の器を神の子としてくださり、私達の「魂」を永遠の命へと招き入れてくださる。
だから、私達は主キリストにあって単なる塵の器ではない。「魂」という美しくも貴い宝を内に持つ器である。
 この福音を噛みしめながら、四旬節を過ごすときに、復活祭(イースター)の喜びはひと塩となる。