2015年12月27日日曜日

うちにもサンタさんが来たー!!!

 クリスマス、すっかり暗くなって帰ってきた。先 に車から降りて玄関に向かった家人が叫んでいる。
 「あなた!うちにもサンタさんが来たー!!!」
 車のヘッドライトに照らされて、夜目にも分かるくらい牧師館の庭がすっきりしている。庭の木々は剪定 され、玄関前に無造作に置いていた植木鉢が綺麗に整頓されている。忙しさの中で、買ったまま放置されて いたスミレの苗、それが植木鉢にちゃんと植えられて いるではないか!気になりつつ横目で見ながら、水だ けやっていたスミレの苗だ。
 喜んだのは家人ばかりではない。これって、いいな ぁ〜。今夜は我が家も“Oh, Holy Night”だ!

2015年12月20日日曜日

命の光きたる

 「暗闇に住む民は大きな光を見、死の蔭の地に住む者に光が射し込んだ」(イザヤ書9:1)と、聖書は主イエス・キリストを光として語る。
 このクリスマス、誰かの心に小さな光を灯したいと願う。Aさんの表情がこの頃チョット良くなってきた!Bさんも昨日初めてニコッと笑ったね。Cさんとは電話で、いっぱい話が聞けた。Dさん、救われた。
 キリスト者はキリストの光に照らされて、主を証しする。主は私の心の暗闇に輝く光だ。それは全ての人を救うためにご自分を捧げてくださった命の光だ。喜び来る!わが救い来る!クリスマスおめでとう。

2015年12月13日日曜日

ウソでもいいから

  「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる」とは、天使がマリアに言った言葉である。
 この後で、マリアはとても自分が恵まれているとは思えないような事実を告げられる。人間の目には、とうてい「めでたい」とは思えない事だ。マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と受け入れ、主キリストが誕生する。
 キリスト者は、苦しい時ばかりでなく、どんな時もこのマリアのように、「御心のままに」と祈ることができる。まずはウソでもいいから、「御心のままに」と唱えてみては如何だろう?「御心のままに」。この言葉には不思議な力がある。

2015年12月6日日曜日

地には主の平和あれ

 ルーテル教会では毎日曜日の礼拝で「平和の挨拶」というのをする。「主の平和がありますように」と言って握手をする。私はこの時が大好きだ。
 初めての方「ようこそ」。久しぶりにあう方「お久しぶり、お元気でしたか?」。昨日もあった方「今日もあえて嬉しい!」。えっ?何やらもやもやするって?心になんだかわだかまりだって?そんなの「平和の挨拶」をすれば、みんな吹っ飛んじゃいますよ。
 アドベント第2週の今日、平和を表わす「天使のキャンドル」が灯される。天使はまず「恐れるな」と告げ、そして「地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美する。私たちはみな一人ひとり御心に適う人!

2015年11月29日日曜日

アドベントキャンドル

 紫のテーパーキャンドルが手に入った。アドベントの典礼色は待望と悔い改めを表す「紫」である。そこで欧米ではよく「紫」のロウソクが用いられる。
 アドベントの1週目は希望、2週目は平和、3週目は喜びを表すバラ色のロウソクを用いる事もある。4週目のロウソクは愛を表し、クリスマスには白いキリ ストのロウソクが灯される。エバーグリーンに囲まれながら、今年は典礼色のロウソクが飾れた。
 色々あったが、主の恵みに満たされたこの一年だったと振り返る。さあ、今日からアドベント。我儘を反省し、このロウソクの灯火が我が心にも灯されて、この世の闇を照らし出せるようにと切に祈る。

2015年11月22日日曜日

いたずらっぽく笑われた

 97歳のKさんを久しぶりにお訪ねした。長男ご夫妻のお世話で、穏やかに暮らしておられる。ベットにきちんと腰掛けて、私たちを迎えてくださった。
 讃美歌を歌い、聖書を一緒に読む。「目がしょぼしょぼして・・・」とおっしゃりながらも、讃美歌も聖書箇所も的確に開かれたのにはまったく感心する。
 「あともう二三日かな?って、いつも思うんです。でも朝、目が覚めて・・・」と、さんはニコッと、いたずらっぽく笑われた。お別れに「おどろくばかりの恵みなりき・・・」と彼女の愛唱讃美歌「アメイジング・グレイス」を共に歌い、祈りあった。
 Kさん、本当に驚くばかりの主の恵みですね!

2015年11月15日日曜日

友和への道

 13日夜、またしてもパリで同時多発テロが起きた。フランスは国家非常事態を宣言した。  一方、米国はゴトウさんたちを斬首したISのジョンと名乗る男を空爆によって殺害したと発表したばかりだ。
 しかし、このことでインタビューを受けたゴトウさんのお母さんの言葉には、さすがキリスト者だと頷く。彼女は息子の仇討がかなったとは言わず、ケンジは平和を願って死んでいった。そのことを思うと、米国の行為は決して喜べないと言った。
 自分の生命に代えて、息子を助けてほしいとうったえた母親の望みは、恨みでも憎しみでもない、息子の願ったキリストによって保たれる友和への道だ。

2015年11月8日日曜日

ひそかなブーム

 毎朝の聖書日課による祈りの時間がこの頃家人の都合でときどき昼にずれてしまうことがある。そんな時は、めいめい祈れば良いと思う。しかしその点に関して家人は融通が利かないほど几帳面だ。
 なにか忘れ物をしたようで、なんだか落ち着かないのか、「あなた、聖書日課!」と、自分のせいであっても、まるで私のせいのように急かしてくる。
 そんなおりラジオ体操がひそかなブームと聞いた。「ラジオ体操は、じわじわと体に染み込み、体をもとの健全な状態に戻す。継続することで体全体の血流がよくなり、筋肉に弾力性ができ・・・云々」なるほど、心も体も、鍵は柔軟さと継続ということか!

2015年11月1日日曜日

猫のことのようだが、これは猫のことではない。

 飼い猫のドッティが四日間ほど行方不明になった。
 いつもは私たちの帰宅を待って「おかえり」と迎えてくれるのが、その日には姿を見せなかった。どこかに行っているんだろうくらいに思っていたが、二日目ともなると家人は心配で眠れなくなった。さすがに三日目にはご近所を二人で探して歩いた。
 四日目、突然開いていた窓からドッティが飛び込んできた。家人は猫を抱きしめて泣いた。
 この間「祈っている」という言葉に励まされた。また、心配をしてくださったご近所の方たちにも出会えた。他者の痛みや悲しみに寄り添う人の優しさを知った。猫のことのようだが、これは猫のことではない。

2015年10月25日日曜日

あなた方はさいわいだ

 身体や心に病をもつ人たち、苦しみ悩む人たちがぞくぞくと主イエスのもとに集まってくる。主は彼らに向かって「あなた方はさいわいだ」と宣言される。 
 人は、突然の病気や予想もしなかった困難な状況に陥ると、そうではなくても、これは「自分に何か落ち度があったからだ」と、つい自分を責め始める。
 だが、自分がマイナスだと思い込んでいるものを、主は、さいわいなものへと造り変えてくださる。
 マルチン・ルターは「懺悔」することを教えてくれた。罪を告白し、赦しの宣言を受け、私たちは新しくされる。懺悔によって、初めて私たちは癒される。「癒やし」とは本来そういうものだ。神からの祝福だ。

2015年10月18日日曜日

歌いながら手を繋ぐ

 一週間に一度、彼の好物を持って主にある友人を病院に尋ねる。面会室でしばしのお茶の時を持って、一週間の話をゆっくり聞かせて頂く。
 心を病む彼には、親しい家族はもういない。孤独と将来の不安から「虚しくなりました」というのがこの頃の彼の口癖である。なんとか彼の支えになりたいと願う。聖書の学びと祈りのあとで一緒にテゼの讃美歌を歌う。「恐れるな わずらうな 主は共におられる 満たされる あなたは 神によって・・・」歌いながら手を繋ぐ。主が私たちの輪に入ってくださる。
 彼が救われ、主に委ねて生きてゆけるようにと祈りながら、牧者としての試行錯誤の道はまだまだ続く。

2015年10月11日日曜日

平和だからこそ

 昨年に続くノーベル賞受賞の快挙は何とも嬉しい。
 一つは、足元の土の性質に目を向けたもの。土から発見した細菌から感染症のワクチンを開発し、熱帯地域に住む発展途上国の人々を救った功績による。

 次は土から空に。世界の自然法則を理解したいという、人類の根源的な好奇心はとうとう目に見えない素 粒子ニュートリノに質量があることをつきとめた。
 澄み渡った秋の空を見ながら思う。肉の目では見え ない世界を遊び心で思い巡らすことは、神の創造され た世界を思うことだ。平和だからこそ、土中の微生物や宇宙の成り立ちにも取り組める。
 この世界に主の平和が満ちますように。

2015年10月4日日曜日

自らに問う。捨て切れるか?

 またアメリカで銃の乱射事件が起きた。尊い命が犠牲となった。オバマ大統領は、銃の規制を強く叫ぶ。 「米国は先進国で数カ月おきに、こうした銃乱射事が 起きる世界で唯一の国だ」と。しかし、銃を捨てられない勢力は相変わらず頑固で根強い。
 主イエスは、永遠の命にあずかるには片手片足を切り捨てても、と言われる。随分過激な言葉に聞こえるかもしれないが、両方を守って死に至るくらいなら、確かに片方を切り捨ててもまことの命にあずかりたい。
 物事には大切な順序というものがある。一番大事なことのためには、二番目以下のことを手放すのは当然だということだ。自らに問う。捨て切れるか?

2015年9月27日日曜日

シンプルになる

 敬老の日、幕山公園に叔母を連れだした。毎日の殆どを施設内で暮らしている叔母にとって、屋外の自然の空気は久しぶりのことだろう。緑の木立の中、川の流れの音を聞きながらしばらくベンチでくつろぐ。
 「ああ、風がいい気持ち!」と叔母。「そうですね」とわたし。特に話はしない。記憶に頼る会話はむつかしい。叔母にとって、今という時が平和であればそれで十分。明日のことは煩わない。すでにすべてを主に「お任せ」の人生が始まっている。
 人は歳を取ってシンプルになる。それは幼子の純真さに通じる。さて、歳に関係なく主にお任せの人生は如何?主はあなたを喜んで受け入れてくださる。

2015年9月20日日曜日

「本当の意味」で「救い」、「助けて下さい!」

 主イエス・キリスト様!どうか、私を含めた、私の家族5人を、「本当の意味」で「救い」、本当の意味」で「助けて下さい!」よろしく、お願いします!
 鉛筆書きのこういうハガキをだいぶ前に受け取った。知らない人からの希求の手紙だなあと思いつつ、目の前の事に追われて、つい放って置いた。
 今日、返事を書いた。「『主イエス・キリストは私の救い主です』と告白するとき、あなたの求める『本 当の意味の救い』が始まります。本当の救いは『永遠 の命』を信じることです。ぜひ、お近くのルーテル教 会の礼拝に与って下さい。そこから何かが始まります。あなたとご家族のためにお祈りします」。

2015年9月13日日曜日

このつぎはと興味津々

 目前の工事は、この夏、建物の地盤となる基礎工事をほぼ終えたらしい。掘り返し、埋め戻しの大音響の毎日だった。8月末に、でっかいキャタピラの付いたブルドーザーや首の超なが〜いクレーンが、工事後の地面の表を平らに直して次々と帰っていった。
 束の間の静寂・・・猛暑日に猛暑日が続いた夏の終わりが意外にあっけなく来たのに似ている。気がつけばいつもの彼岸花が牧師館の片隅にスイスイと姿をあらわしている。もう来週は秋分の日だ!
 さて、工事の方はと見ると、新しいクレーンが部品でやって来てここで組み立てられた。前にもまして強力強大だ。つぎの工事は如何にと、興味津々である。

2015年9月6日日曜日

「たった一人」を見逃すまいと祈る

 いまヨーロッパ中を駆け巡っている衝撃の写真がある。ギリシャに向かう移民船がトルコ沖で沈没し、シリア難民の男児の遺体がトルコの海岸に打ち上げられた。靴をはいたまま、膝をまげて砂浜にうつ伏しているその姿はあまりにもあどけなく、可愛らしい。そして、痛々しくて胸がつぶれる悲しい写真だ。
 「たった一人の子どもでも、力になれたら」と思って活動してきた。これはユニセフ親善大使を1984年から務めてきた黒柳徹子さんの直近の言葉だ。
 この「たった一人」にキリストは絶えず目を注ぎ、憐れまれたと聖書は告げる。私も、目の前の手の届くところの「たった一人」を見逃すまいと祈る。


( #KiyiyaVuranInsanlik  というハッシュタグでTwitter を検索すると世界の人々からのツイートに触れられます。)

2015年8月30日日曜日

イエス様が手を広げて待つところ

 「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい。‥‥…一日いても誰も何も言わないよ。……」これは某図書館の公式ツイッターに掲載中のツイートだ。
 素直に感動した。そして『としょかんライオン』(ミシェル・ヌドーセン作/ケビン・ホークス絵)という絵本を思い出した。町の図書館に突然やって来た大きなライオンが図書館で過ごす話は、きまりを巡ってすったもんだあるものの、胸がキュンとするほど暖かい。 
 学校や職場、そして家に居場所がないと感じたら、その時こそ教会を思い出してほしい。ここはイエス様が手を広げて待つところ。いつでも連絡をと祈る。

2015年8月23日日曜日

ビタミンを有り難く頂戴する

 教会の横の鉢には30センチはありそうな、なが~い豆の莢(さや)がツルから何本もぶら下がっている。「十六ササゲ」だ。関東では珍しい豆だと思うが、岐阜では大正時代から、その名も「十六豆」と言って栽培してきて、今では伝統野菜の一つとなっている。
 原産国はアフリカで高温、乾燥に強い。カンカン照りの毎日、鉢に土を足して、毎日水をやる。見るたびに、背丈ほど伸びたツルのいたるところ、莢豆が長々と垂れ下がっている。「まだまだ、まだまだ」と言いながら、できるだけ莢が太り、長く伸びるのを待つ。
 茹でてよし、煮てもよし。この夏たっぷりのビタミンを「十六ササゲ」から、有り難く頂戴する。

2015年8月16日日曜日

そこに曖昧さはない。

 戦後70年目の談話を読んだ。日本が戦争に突き進んでいったその背景に、欧米諸国を始めとする植民地政策と世界恐慌後の経済のブロック化によって日本が孤立感を深めたという理由が述べられていた。
 日本の戦争責任の他に、世界のとりわけ欧米の責任を匂わせる。その文章を読んで思った。アジアの国々にお詫びをするには、いささか「悔い改め」が甘すぎるのではないか?
 周囲の状況、相手の正誤に関わらず、自らの有り様について「悔い改める」ことを聖書はまず説く。そこに曖昧さはない。戦争への道から踵を返して、180度反対方向を目指せ。そこに平和の主もおられる。

2015年8月9日日曜日

おいしくなれ〜、おいしくなれ〜

 記録的な酷暑と絶え間なく続く工事の騒音の中で家人はこのところ台所でジャム作りに余念がない。
 牧師館の庭にある「イヌビワ」の木に親指大の実が なった。◯先生がジャムになるよと教えてくださったとかで、まずは収穫。
 「イヌビワ」をインターネットで調べたところ、イチジクの一種で、食べられるのは雌木の実で、残念ながらここのは雄木だとわかった。
 雄木にもメゲズ、この暑さにもメゲズ、我が家の初収穫だからとグツグツ煮ている。「おいしくなれ〜、おいしくなれ〜」と言いながら。
 試食してみる。私の口には、うまい!というほどではないが、家人にはこよなく貴重なジャムらしい。

2015年8月2日日曜日

右脳から平和

 左脳と言うのは、「自分」という「個」を認識させ る知性の働きだ。それは過去から未来を生きる私であり、言葉で考える私である。この左脳を使って、私達は現実世界と向き合うことができる。  仮に、脳梗塞などによって左脳の働きが失われ、右脳だけが働くとしたら、一体どうなるだろうか?右脳はわずらわない。今感じている感覚がすべて。「私」はこの世界に存在する全ての人々と一体となり、広大な宇 宙の一切の中に溶け込んでいくという。それは筆舌に尽くしがたい至福感だそうだ。
 さて、時には左脳の「私」へのこだわりを捨てて、右脳の至福に浸ってみたい。きっとそこは神の国だ。

2015年7月26日日曜日

なんだか家族の会話みたいで

 精神科の入院病棟の面会室で毎週一回、信仰入門講座を始めてから2ヶ月ほどになる。最初面会申込書に、本人との関係をなんと書いたものかと迷った。いわゆる家族親戚ではない。友人、知人というのも今一しっくり来ない。その他の欄にやはり「牧師」と書いた。
 おやつとお茶で和んできたところで学びをする。途中、いろいろ話も飛んで脱線もするが、それも楽しい。最後は祈り合って終わる。
 今日は別れるとき、初めて「気をつけて」と私達に言葉をかけてくれた。妙に嬉しい。「ありがとうございました」はどうしても上下の言葉になる。
 なんだか家族の会話みたいで嬉しかった。

2015年7月19日日曜日

夏が来る、来る。

 降り続く長雨にもそろそろうんざりし始めた頃、いきなり真夏のような暑さがやってきた。てっきり梅雨が明けて夏が来たかと思えば、今度は台風の到来で、激しい雨。
 「天気よ、お前には丁度良いということはないのだね」そう、独りごちてみるものの、相手が天気ではどうしようもない。しかし、晴れたり、降ったりを繰り返しながら、そろそろこの梅雨とも来年までの別れとなる。
 まもなく水平線から入道雲が湧き上がり、夏がくる。先週はクロアゲハやトンボが飛んでいた。今日はセミも鳴いていた。来週の月曜日は海の日だ。ああ、もうすぐ夏が来る!夏が来る、来る、夏が来る。

2015年7月12日日曜日

妙なことだが

 牧師館の二階からは向かいの建設現場の様子がよく見える。朝8時、いつものようにラジオ体操で始まる。それから、今日の予定の確認でもしているのか、みんな一段高いところに立つ人の話を聞いている・・・どうやら終わったらしい。
 すると全員が向かい合って、やおら片手を前に出して、「オゥ!」と叫んで振り下ろした。円陣こそ組まないが、なんだかスポーツの試合前のようだと思った。まもなく、ブルドーザーの大音響が聞こえ始めた。
 ラジオ体操、円陣、おまけに工事現場の入り口に作られた小さな花壇を思い浮かべる。妙なことだが、この大騒音を我慢しようという気になる。

2015年7月5日日曜日

海の向こうから祈りがとどいた

 一通のエアメールが届いた。はて?と思いながら封筒の表を見る。米国、ノースキャロライナ州のランバートンにある聖マルコ・ルーテル教会から。宛先は湯河原教会の皆様である。
 それは、引っ越したばかりの二女が通い始めた教会で、先だって家人が訪れた時、日本福音ルーテル湯河原教会は同じ流れをくむルーテル教会だと自己紹介したという。
 封を開ける。教会の便箋に教会員それぞれがサインをした手紙が入っていた。「聖霊降臨後第4主日に、湯河原教会を覚えて祈りました。・・・湯河原教会を今年度の私たちの教会の祈りのリストに入れました・・・」
 すごい!海の向こうから祈りがとどいた。

2015年6月28日日曜日

アオダイショウ

 梅雨のこの時期、雨が止んでいてもいたるところ湿気だらけである。気がつけば風呂場にも台所にもナメクジが這っている。どこからやってくるのか、さっぱり謎である。
 だがまてよ、考えてみると牧師館の庭は雑草と雑木で覆われていて、この時期は水浸しである。思い立って下草を取り、雑木の剪定をする。
 見ると、1メートルもあろうかと思えるアオダイショウが木の枝を下りて道を横断して行った。隣の工事のせいで、アオダイショウは我が家に避難して来たのかもしれない。せっかく牧師館の庭にいたのに、まことに申し訳ない。だが、確かに風通しは良くなった。

2015年6月21日日曜日

洗礼の水をたたえる“釜”

 湯河原教会を創設した米国人ジョン・ボーマン牧師は、土地の人々から「青い目の良寛さん」と親しまれた。終戦後の復興期のことである。
 ボーマン夫妻は、近所の海岸で多くの家族が海水浴を楽しむのを見て、東京で出会った貧しい家庭の子供たちを招いて思う存分楽しませてあげたいと考えた。
 夫妻は生活を切り詰めて費用をため、まず母子寮の子供たち30人を三泊四日の教会キャンプに招待した。その時の子供らの喜びが当時の記事に綴られている。
 2年前、この催しに使われた大きな釜が教会堂の屋根裏で見つかった。湯河原教会宣教60周年の今年、この釜は洗礼の水をたたえる器として蘇ろうとしている。

2015年6月14日日曜日

「美味しくたべてもらいたいんです」

 さて、お目当てのきび餅を買いに某和菓子屋を探しに出かけた。小さいが簡素で古い構えの店に、老婆と年配の女性が接客をしていた。
 やっと探し当ててきたというと、「そうですか、そうですか」と大歓迎された。すすめられるままにきび餅を試食する。
 「うまい!」。きな粉の味も、モチモチ感も満点である。実は今まで、きび餅という庶民的な和菓子が、こうまで美味しいものだとは知らなかった。
 ああ、これが本物の湯河原名物のきび餅だと納得。これまで何軒かの和菓子屋で買ってみたが、このきび餅の味には出会えなかった。創業当時から作り方を変えていないというこだわりも大いに気に入った。

2015年6月7日日曜日

まるでイエス様みたいね

 教会の掲示板を掃除した。ガラスを外し、濡れ雑巾で拭き、歯ブラシでこすり、隅っこは爪楊枝で汚れをかき出す。しかし石鹸、洗剤、ベンジンを持ってしても外枠の煮汁のような汚れはどうにも落とせない。
 家人が台所から小さな白いスポンジを持ってきた。果たして・・・?きれいに落ちるではないか!しかし、当のタワシは私の手の中でぽろぽろと垢となって、とうとう無くなってしまった。洗剤は要らない。水だけで、ひたすら身を削って汚れを落とす『メラニン研磨タワシ』の力を知った。
 「まるでイエス様みたいね」と、家人の一言が痛かったが、掲示板はすっかり新しく生まれ変わった。

2015年5月31日日曜日

教会の花は救いたい

 先週あんなにきれいに咲いていたスイトーピーが、気がつけば無残に枯れかかっているではないか!きっとこの2日ばかり、水やりを怠ってしまったためだと、早速バケツに水を持って急ぐ。
 しかし、よく見ると、それは無数のアブラムシにたかられている事によるものだと分かった。上の方の柔らかな茎という茎は、まるで緑色のゴマをまぶしたようになっていた。
 反射的に手が伸びる。「この、アブラムシめ!目に物見せようぞ!」とばかり、アブラムシのついた枝を次々しごいた。こんなことで、アブラムシに勝利するとは思えないが、それでも教会の花は救いたい。

2015年5月24日日曜日

ナイスなスペース

 湯河原教会の前庭に新しいスペースが誕生した。丁寧な仕事ぶりが伺える。施工してくださったY建業さんに感謝である。
 お礼を言うと、「教会って言うのは、みんな奉仕で成り立っているんでしょ?だから、うちもそういう気持ちでやらせてもらっています」と言われる。これはすごい!教会の本質をよく心得ておられる。
 それにしてもこの空間が出来て、印象がずいぶん変わった。ちょっとした事なのに、広々としてなかなかいい。
 ここにベンチが据えられる。横にはプランターが並び、花が植えられる。このスペースからも「どなたもおいでください」とのメッセージを是非届けたい。

2015年5月17日日曜日

天に上げられた主

 人間は肉体としての「見る」という機能を科学の力で発展させてきた。レンズやレントゲンなどは人間が見る力を追求してきた結果である。
 だが、主イエスの昇天の姿は科学を駆使しても見ることはできない。ひとえに心の目、信仰の目が開かれる事による。
 礼拝で、司式者は手を上げて祝福する。それは主イエスが、手を上げて弟子たちを祝福しながら天に上げられたからである。
 この主キリストの普遍的な姿を心の目を開かれた弟子たちは見ることができた。
 心の目を開いていただくと、今まで見ていても気づかずにいたものが、そうだったのかとわかってくる。
 今日は主の昇天主日である。

2015年5月10日日曜日

ああ、この広さよ!人の寛大さよ!

 家族全員で集まろうと9年ぶりにテネシー州の地方空港に降り立った。ガラス張りの広々とした空港ロビーは到着ロビーから2階までゆるやかな長いスロープに作ってある。 中央には緑と岩に囲まれたアパラチアンの渓谷にみたてた噴水が音を立てて流れていた。
 昼食にファーストフードの店に入った。「アップル・クランベリー・チキンサラダにしよう」とカウン ターに並びながら相談していると、前に並んでいた見ず知らずの女性が、「良かったら使って」と、自分のクーポンを切り取ってくれた。2ドルの割引だ。
 「ああ、この広さよ!人の寛大さよ!」と山盛りのサラダを食べながら思う。

2015年5月3日日曜日

優しさのハーモニー

 「森のイスキア」を主催している佐藤初女さんは訪れてくる心を病む人たちに手塩で握ったおにぎりと、野菜を使った手料理でもてなす。一緒に食べながらその人の話をひたすら聞く。ただ、それだけでみんな癒やされて帰っていくのだそうだ。初めてから19年、今年で93歳だというから、ますます驚きである。
 彼女は野菜の皮も包丁でむく。決して皮むき器は使わない。皮むき器で剥かれる野菜はヒリヒリと痛そうだという。同様におにぎりも手塩で握る。お米が窒息するからと言ってラップは使わない。
 素朴なおにぎりは相手の気持ちをそっと受け入れる。優しい気持ちで作った料理は味も優しいのだろう。

2015年4月26日日曜日

日差しにつられて

 ウグイスの声がした。「ホケッ」とか、「ケキョ」とかの「まだまだだなぁ」というのではなく、「ホ~ホケキョッ」というフルスケールの美声である。     
 昨日、「今年はウグイスが鳴かないね」と話した矢先の事だった。久々の天気につられて、ようやくウグイスも歌いはじめた。姿は見えないが、近くの木立にいるにちがいない。花匂う春にほれぼれする歌声である。家人が家猫に言い聞かせている声が聞こえてきた。「いい子だからね、絶対に鳥を捕って来ないでね。それからトカゲもバッタもね」ウグイスの鳴き声に聞き耳を立てているのは人間ばかりではないようだ。家猫の耳もしきりに動く

2015年4月19日日曜日

わくわくで行こう

 「わくわく聖書の会」に、「今日はお天気が良いので来ました」と◯さんがしばらくぶりに来られた。「天気が良いのは、本当に気持ちが浮き浮きしますよね」と□さんが同意する。「お天気が良いとね、私も機嫌がよくなるのよ」と△さんも口をはさむ。
 お天気にかこつけて、同調しあうというのはいい。その場の雰囲気がやわらいで、久しぶりにやって来た◯さんの緊張がほぐれてくる。
 コーヒーが出されて、更に気分がなごんできたところで、「わくわく聖書の会」を始める。ともすればシリアスになりがちな聖書の学びだが、あくまでもわくわくで行こう。

2015年4月12日日曜日

クレソン摘んで

 某先生が一時間で楽しめるよといって、クレソンを摘みに連れだしてくださった。車でいくこと10分ほど。幕山公園の中の渓流に目当てのクレソンが自生していた。まるで自分の庭を案内するように公園のアチラコチラを案内してくださった。青く澄んだ空に、シャクナゲが満開だった。
 湯河原に来て3年目になったというのに、生来の遊び下手に加えての要領の悪さで、なかなか手近な楽しみにも手がつけられない。
 摘んでいると、野生のクレソンの香りがしてくる。ものの数分でたちまち小袋いっぱいに摘んだ。先生のご好意に感謝しながら、久しぶりに春を楽しんだ。

2015年4月5日日曜日

泥だらけの足

 主イエスは最後の晩餐で、弟子たちの泥だらけの足を一人ひとり洗われた。主は「あなた方も洗い合いなさい」と教えられる。
 しかし、現実には泥だらけの足を洗うのは、どれだけ大変なことか!相手の一番醜ところ、嫌なところを大切にすることはどれだけ堪忍が要ることか!できれば、触れたくない。相手になんとか変えて欲しいと思っている、それが私たちの現実だ。しかし、主は泥だらけの私たちの足を一人ひとり洗って下さる。
 聖木曜日、我が足を洗い拭ってくださった主に倣い、私も来られた方の足を洗わせていただいた。洗足は洗われる方も、洗う方も共に恵みだと知った。 

2015年3月29日日曜日

ロングドライブ

 金曜日、いつものように小田原教会に出かけた。真鶴を過ぎると、だんだん車間が詰まりとうとう渋滞。
 どんどん山の方に迂回する車を横目で見ながら、どうしようか?と迷う。しかし知らない道は今一不安と、もたもたしている内に出るチャンスを失う。結局小田原教会に着いたのは朝10時半を回っていた。
 さて帰り、落石の処理は完了せず。小田原市内からすでに渋滞。朝の優柔不断が悔しいので近道を探すが、無意味な努力だと知る。辛抱強く車の列に絆がれる。 
 裏道から割り込んでくる車を、迷いながらも入れてあげた。「俺って、いいやつだなぁ」とちょっぴり思ったりしながらロングドライブの一日を終えた。

2015年3月22日日曜日

霊の目で見たい

 カトリックの十字架はキリストのご像があり、プロテスタントのそれはシンプルである。
 先日ラジオを聞いていたら、テレビとラジオのどちらの方がより脳が活性化するか?と言うことを言っている。日頃ラジオを聞いているので、ちょっと興味を持って聞いた。答えはラジオの方だという。ラジオは映像を補う分だけ余計に前頭葉を使うという。これはいい。
 であるなら、キリストのご像のない十字架に、私たちのために苦しまれるキリストの御姿を、霊の目で見たい。そこにキリストが架かっておられる十字架はどんな苦しみも喜びに変わるというシンボルだからだ。キリストの御姿を十字架に仰ぎ見つ受難週に向かう。

2015年3月15日日曜日

蜜柑もいろいろ

 ◯さんが手に持っていたバックから蜜柑を一つ手品のように取り出してくれた。形と大きさはオレンジ、皮は甘夏そっくりで、色は伊予柑のようだ。さっそく食べてみた。味はあっさりした温州蜜柑のようだが、はて、初めて食べたこの蜜柑はいったい何だろう?
 そういえばN君のTシャツには見たこともないたくさんの柑橘類の絵がプリントしてあったなぁ。スウィティー、セトカ、セミノール、ハルミ、日向夏、黄金柑・・・品種改良がすすんで今や蜜柑にはこんなに種類があるのかと驚いた。
 名前も知らない蜜柑を食べるなどという楽しみはここ湯河原ならではだ。これもまた神の恵みと思う。

2015年3月8日日曜日

なんとなくゾクゾクしてくる

 教会の隣の広い空き地に大きな天幕がはられた。その翌日、ちょうどこちらは「聖書の学び」の最中だったが、鍬入れ式が行われたようだ。次の日、いつの間にか巨大天幕はすみやかに取り去られた。
 いよいよ某宗教団体の建築が始まり、竣工は来春3月だと聞くと、なんとなくゾクゾクしてくる。「いよいよ隣に建ちますね」と言うと、「いいじゃぁないですか!立派な鉄筋の建物の隣に、教会はやはりこれですよ。」と、◯さんが励ましてくれるのが有り難い。
 そうだ、教会は単に建物ではない。キリストの十字架によって誰もが救われるところなのだ。小さき群れの「世の光・地の塩」としての挑戦は続くと納得する。

2015年3月1日日曜日

魂の器

 四旬節(レント灰の水曜日からイースターの前日まで)に入った。この期間は主の十字架を思って「回心する」期間である。それは、「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)という事実を覚えるときだ。
 けれども、私達は生涯の終わりには単なる塵に返っていくのではない。イエス・キリストは十字架の愛によって、この貧しい塵の器を神の子としてくださり、私達の「魂」を永遠の命へと招き入れてくださる。
だから、私達は主キリストにあって単なる塵の器ではない。「魂」という美しくも貴い宝を内に持つ器である。
 この福音を噛みしめながら、四旬節を過ごすときに、復活祭(イースター)の喜びはひと塩となる。

2015年2月22日日曜日

弱さを誇ろう

 豊かな日差しに梅の花はいつしか満開。季節は希望の春を告げている。けれども、このところのイスラム 国のニュースには心が塞がれる。  この世はみな、強さを求め、強さを誇り、報復に報復を叫んでいる。しかし、キリスト教は違う。「…わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と主イエ スは言われる。パウロはそのみ言葉を信じて疑わず、 「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と告白する。
 ご自分の命に代えてわたし達を救ってくださったキリストに自分を明け渡すとき、人間は自分の弱さを誇る事ができる。弱さの中に慈しみの主はおられる。

2015年2月15日日曜日

あわれみの主に感謝!

 朝から雪が舞う中、肋骨を骨折して入院している叔母を西伊豆に見舞いに行った。12月の末以来である。
 幸い、今月末には退院と決まったが、医者は叔母が一人暮らしをするのはもう難しいと言う。
 伊豆で叔母の暮らせる施設を手を尽くして探してみたのだが、唯一の入所可能な施設は、一人部屋ではな く、建物も古いという。思案の末に「叔母さん、とにかく家に来てください」と伝えた。叔母は「すべては神のみ心のままにですから」と微笑んでくれた。
 翌日、町役場の福祉課に相談に行ったところから急展開した。叔母は牧師館の近くにある老人ホームに入れそうである。あわれみの主に感謝!

2015年2月8日日曜日

のんびりいこうよ

 朝8時ころ、玄関のドアがノックされた。戸を開ければ宅配の方である。いったいこんな時間に何が配送されてきたのかと荷物を開けてみれば、前の夜10時過ぎにインターネットで注文した本だった。
 驚きだ!こんなに即行で本が手に入るとは。このスピードとサービスぶりに今という時代を感じたが、これを素直に喜んでいいのかと考えてしまった。
 注文から12時間もたたずに配送されてくるというのは、この為に夜中に働いている人があるということだ。病院や福祉施設の夜勤の方の働きには頭がさがる。しかし、それは何もかもでなくてもいいのではないか。当たり前の働き方で、普通のサービスというのでいい。

2015年2月1日日曜日

信仰は他者への愛

 「宗教がこわくなったのでキリスト教をやめます」という電話をある方から頂いた。すぐに思い当たったのは、イスラム国の人質事件である。国内でも宗教の布教活動に行って殺害されたという事件が報じられたばかりだ。
 あまたの宗教と呼ばれるものを一括りにしてしまうのはどうかと思う。宗教と信仰は違う。ましてイスラム国は自分だけが正しいとして、それ以外のものを徹底的に否定、排除する原理主義の一つである。
 私たちが信じるのは。わが身を捨てて他人の命を救ってくださったそのお方だ。友の救出に自身の命をかけたゴトウさんの解放を祈らずにおられない。

2015年1月25日日曜日

信仰の神秘

 大寒のいま、日本中が寒さに覆われている。しかし湯河原はさすがに暖かいと見えて、教会の小さな庭には菜の花が満開である。長くなってきた日差しは天父の恵みだと言わんばかりに、さんさんと輝いている。
 この時期、草花が蕾をつけ花を咲かせるのは気温というよりむしろ日照時間に関係があると聞いた。だから雪の中で芽吹く猫柳もあるし、蕾がほころぶ寒梅があるのだと納得する。
 一年で一番寒い時期に、日差しがだんだん長くなる、地球が公転すればこその不思議。自然はうまく出来ている。この平等な恵みを天父からの贈り物と感じられる不思議、それは信仰の神秘ではなかろうか。

2015年1月18日日曜日

会心の作

 今日のニュースのどれを見ても、元気の出るものがない。それどころか、またしても・・・、というような記事ばかりである。
 しかし、中に「元気だせ」とばかりに、ぱぁっと明るいものがあった。「現代学生百人一首」の記事だ。毎年この時期、朝日新聞の『天声人語』で紹介されるのを楽しみに読む。
 これぞクリスチャンの心意気にピッタリだと、私が気に入ったのは中2女子のこの歌だ。「書き初(ぞ) めの会心の作きめたのは諦めかけたラスト一枚」。
 そうだ、チャレンジを続けよだ。「門をたたけ、さらば開かれん。(マタイ7:7)」!主にあって、扉はかならず開かれる。忘れまい。

2015年1月11日日曜日

洗礼

 年明けに、小田原教会の信徒の方から湯河原教会へ一枚のハガキが届いた。「湯河原教会の皆様より心暖かい祝福を頂きました・・・」と、感謝の言葉である。
 昨年のクリスマスに受洗した小田原教会の姉妹に、湯河原教会は兄弟教会として、お祝いの言葉をその時ファックスで送った。洗礼式後の愛餐会でファックスを受け取って、彼女は驚き、感激で涙ぐんだ。
 洗礼が個人の喜びだけでなく隣り町の兄弟教会の喜びだと伝えることは、実にいい兄弟姉妹の働きではないか!それは天にあるもっと大きな喜びをも示している。
 主の洗礼日に、キリスト教会は洗礼を根拠にして立っていることを思い起こす。

2015年1月4日日曜日

ワクワク大作戦

 2015年がスタートした。新年恒例の箱根駅伝をラジオで聞いた。キリスト教主義の青山学院大学が初優勝した。箱根の山登りで新記録、往路も、復路も圧倒的な強さだった。選手本人たちもこんなに走れるとは思わなかったと驚いている。  入学当初、調子が上がらなかった1年の選手は「今、ダメでも走れるようになる」という監督の言葉を信じ、練習を続けてきたそうだ。「選手が本気で取り組めば課題が見つかる。それを乗り越えようと戦えば、強くなれる」。きっと前に進めると言うメッセージだ。
 緊張せず、楽な気持ちで、楽しく走るという「ワクワク大作戦」がみごとに実を結んだ。